宵の月には皐月晴れ

「今宵もお月様は美人だねー」
 ベランダで独り、熱っぽい唇でつぶやく皐月。片手で缶(500ml)を鷲掴みに振ると、残り少ない中身(ハイボール)が小さな波音を立てる。
 涼風が心地よい晩春の夜だ。
「こういう日に、自室で独り酒というのも中々乙だ」などという嗜好は独身女としては少し廃退気味な気がしないでもないが、そういう無粋な意見は犬にでも食わせてやれというくらいには彼女は豪放な性格をしていた。
 空け晒した窓の中は、空になったパスタの皿とフォーク、それと読みかけのファッション誌が小さいテーブルの上に無造作に置かれていた。雑誌は風水コーナーのページが開かれていて、玄関用アイテムのところにペンでマルが付けられていた。風でページがめくれないようになのか、スマートフォンを重石代わりにして。
「ペットでも飼おうかなー」
 ふと、そんな言葉を吐き出すが、すぐに頭を振る。
 ペットを飼う女は男運が逃げる、というのを何かの本で読んだ覚えがあった。とはいえ、このままアラフォーライフを独りきりで過ごすというのも、いささか寂しいものがある。ただ、なんとなくペットに逃げるのは違う気がするのだ。第一、ペットという言葉を和訳すると「愛玩動物」となり、「愛でる玩具(オモチャ)」というふうに受け取れる。つまり、寂しさを紛らわすために飼った動物を可愛がるというのは、好きな玩具を愛でるようなものというワケだ。屁理屈かもしれないが、彼女にとっては結構真面目な問題だ。無論、「お犬様」などといって崇める気もないけれど。
 肘を突いた姿勢で青い満月を見上げると、なぜか涙腺が緩んでしまう。今日という日はもう来ない。
 別段、何か特別なことがあるわけでもない、いつもと変わらない一日だった。にもかかわらず、なぜだろう?
 こんなに寂しいと感じた夜は、久々だった。
 
 
 春の陽気というには余りにも日差しが強かった。
 梅雨入りすらまだなのに、真夏日とはこれ如何に?
 そんなことを考えながら、皐月は二軒目の営業先をあとにした。
 昼下がりにしては暑い午後のビル街は、アスファルトの反射熱の所為もあり、ちょっとした自然のサウナと化していた。
「うぅ、少しだけ涼もうかなー」という声が漏れそうになるのを我慢しつつ、彼女は汗を拭いながら腕時計に目をやる。
 約束の時間までに間に合うか、ちょっと微妙かな。
 そう思ったのは、次の営業先のことではない。今夜のデートのことだ。
 大学時代からの友人の紹介で知り合ったその青年は、彼女と同じ広告会社に勤める企画部のエースで独身のアラサー君。元営業だったそうだがその割には交渉下手で、最初に会った時にもメールの交換すら中々切り出せないでいたら皐月の方から名刺の裏にメモ書きして渡すほどだった。おそらく、余り水が合わなかったか何かで成績が振るわずに異動させられたのだろう。ただ、異動先が企画部だったことと、他人には無い発想で物を考える能力があったことが彼にとっての幸運だったのだろう。水を得た魚の如く才覚を発揮して、一目を置かれるようになったらしい。ルックスに関しても、美男子とまでは言わないがそれなりの格好をすれば中々のイケメンでもある。経歴はともかく、今の皐月にとってはまさに好条件の相手といえた。
 その彼との二度目のデート、それに間に合わないかもしれなかった。
 しかし、彼女はさほど慌ててはいなかった。一度目のデートでもやや遅れたが、彼は待っていてくれたのだから、今夜だって……という甘い考えが頭の端にあったかもしれない。仕事で遅れるのだから、連絡すれば多少は目を瞑ってくれるだろう。そういう淡い期待もあったかもしれない。でも――――
 それらは、単なる怠慢でしかなかった。そう後悔しても、もう遅い。今日という日はもう来ない。
 結局、度重なる顧客との打ち合わせが長引いてしまい、全ての営業周り終わる頃には約束の時間から二時間も過ぎていた。遅刻の連絡をしたのも時間ギリギリの一回きりで、どのくらい遅れるか訊かれても「終わったら連絡する」で通してしまった。
 
 
「交渉下手か。あたしも人のことが言えないなー」
 何本目かのハイボールを片手につぶやく皐月。
 何であの時、先に店に行ってもらうとか思いつかなかったのだろう?
 何であの時、小まめにメールしなかったのだろう?
 悔やんでも仕方なく、ただ地球が無情に周るだけ。そんな時だ。音も無く、テーブルの上でスマートフォンが小刻みに震えだしたのは。
「あれー、こんな時間に誰だろ?」と、部屋へ入る彼女。その画面を見た瞬間、緩んだ涙腺から熱を帯びた体液が一気にあふれ出た。
 それは、交渉下手な彼が人生で初めて取り付けた「次の約束」という交渉。
「どうだお月様、あたしも中々捨てたモンじゃないだろー」
 皐月は最後のハイボールの缶を開けると、そう言って窓の外に向かって乾杯のポーズをとった。