血塗られた封印の城 第二章(10)


 ルーシアは、半歩後ろに下がっていた。
 わずか数ミリ程度の差で、虚しく空を薙ぐ鉄の爪。
「ちょっ……何て事するんだ! こいつは……」
 確かに「何て事」だろう。慌てて避けたルーシアの白いネグリジェには、腹部に鮮やかな切り口が開いていた。隙間から彼女の白い肌が覗いている。少しばかり反応が遅れていたら、彼女の腹は裂かれていたかもしれない。
 だがそんなルーシアの抗議を無視して、化物は間合いを取るように後方へと飛ぶ。そして、再び身を屈める。
 ルーシアも戦闘の気配を察してか、左手でネグリジェの切り口を抑えながら再び木刀を構え直す。
 緊張が高まる中、対峙する二人。
 にたりと口を横に開いて、黄ばんだ歯を見せる漆黒の化物。
 来る?
 そう読んでルーシアは警戒を強めるが、しかし同時に妙な違和感を感じ取っていた。その違和感の正体が何なのか解らず、少し居心地が悪そうに顔をしかめ――
 次の瞬間、化物が床板を蹴った。
 今だ半開きになっている右の扉(・・・)へ。
「なっ……て、ちょっとぉぉぉぉぉぉ!」
 慌てて追うルーシア。しかし意表を突かれたせいだろうか、若干反応が遅れていた。
「待てぇぇぇぇぇい!」
 扉を駆け抜け、ルーシアは暗闇の寝室に足を踏み入れる。
 その正面、月明かりが灯る窓辺を背に振り向く漆黒の化物。まるで嘲笑うかのように彼女を見ている。
 ルーシアは、木刀の切っ先を向けて言い放つ。
「悪いけど……そう簡単には逃がさないよ!」
 だが、その言葉に反応を示したかのように、化物が口を開いた。
「ぐふふふふ………美味そうな小娘……」
「うわぁ、こいつしゃべった……てか………」
 びしっ! とルーシア、正面向かって人差し指を突きつけ言い放つ。
「言うことがキモい!」
 しかし差ほど気にも留めず、それは言葉を続ける。
「ぐふふふふ、柔らかそうな肉……実に斬り甲斐がありそうだ……ぐふっふふふふ………」
「何か怖いんですけど、この化物(ヒト)……」
 あまりに異常な化物の嗜好に、流石のルーシアも思わず顔を引きつらせる。
「ルーシー……さん?」
「ほへ?」
 突然、横手から声が上がる。ルーシアが、反射的に声のする方へ振り向く。
「か、会長さん?」
 そこには金髪の少女――マリーナ・テレザ・ウィンハルトが、無表情なままベッドの上で佇んでいた。
 とその時、咄嗟に何かの動く気配を感じ取り、すぐさまルーシアは正面を見る。だが、
「しまった! 窓から……」
 開かれた窓から、夜の冷たい風が入る。すかさず窓に駆け寄るルーシア。
 見下ろすと、塀に飛び乗る化物の姿があった。
「逃がすかぁ!」
 ルーシアは得物を横向きにし、塀の上の化物に照準を定め……
「て、あぁぁぁぁぁ間違えたぁぁぁぁぁ! いつものクセで」
「……………」
 突然、頭を抱えてワケの解らない事を叫び出す彼女を、マリーナはただ呆然と眺めている。
 廊下でも、寮生達の視線がルーシアに集まっていた。
 外は既に人の気配は無く、静まり返った庭先を一陣の風が吹き抜けていった。