菅内閣と平民宰相

 どもども、さるです。
 晴れ渡る青空の元、優雅にコーヒーでも飲みながら脳内プロットを組み立てる。
 お昼に、そんなことばかりして時間を費やしてました(笑)
 
 しかし、そんな幸せな日々を脅かすのは、いつも現実的な問題。
 
 菅首相率いる民主党政権は、果たして我々民衆の生活を何処へと導くのでしょうか?
 その菅首相が鳩山前首相と比較されること。それは、出自の違い。
 片や政治家一族という上流階級の出身で、四世議員の鳩山さん。
 片やサラリーマンの家庭で育ち、市民活動を経て政界入りした菅さん。
 これまで歴代首相の多くは二世や三世など元々政治家の家庭で育ち、庶民的な暮らしを知らない人達ばかりで、金持ち感覚で財政改革などを推し進め、殿様政治で市民にアメとムチを与えていただけのような印象がありました。だがそこへ、一般大衆と同じ階層出身の新総理が誕生したことは、我々国民にとって一筋の光明が射し込んできたような、そんな出来事だったと思います。言わば、庶民派総理というイメージですね。
 さて、これと似たようなイメージを持つ言葉として平民宰相というのがありますが、ここで大正7(1918)年に発足した原内閣の時代について少し触れてみたいと思います。
 原敬以前、内閣首相の座は維新の功労がある薩長閥、公家や大名の家系など、華族議員によって構成された貴族院が独占していたのですが、原は衆議院議員として初めてその地位に就いた人だったワケですね。
 平民層から出た首相ということで、当時まだ選挙権の無かった一般大衆から期待が寄せられていました。が、後世の歴史が示すように彼の政策は庶民側の視点では無く、あくまで国益を見据えた上での財政改革を執り行ったのです。
 
 当時、ロシア革命の混乱に乗じて日本は米英仏伊と共にシベリアに出兵していました。その頃、ちょうど第一次大戦によりヨーロッパで兵器需要が高まり、物資を売りつけて景気が上向いた勢いも手伝い、日本は近代国家としての自信を付けていました。
 この大戦景気で、恩恵を受けた連中が現れました。札束をどこぞの芸人みたいに扇いだりロウソク代わりに燃やしたりするなどの振舞で、庶民の不快感を煽る労働者の敵。人呼んで成金(ブルジョワ)。彼らと労働者との間には、格差という越えられない壁が生まれていました。
 しかし大戦の影響は、同時に米の輸入量減少という事態ももたらし、米価の高騰を引き起こしました。
 その最中、先述のシベリア出兵で兵糧米の需要が伸びて米が買えなくなる危険性を感じた成金資本家達は、あろうことか米という米を買占めるという暴挙に出たのです。それによって米が買えない平民達が暴徒と化し、米問屋に押しかけるという事件が全国で相次いで発生しました。世にいう『米騒動』ですね。
 
 そうした背景の中、シベリアでは米英を中心にソビエト連邦との撤退協定が結ばれました。が、俄かに自信を付けていた日本だけは、土地欲しさに協定を無視して居残りを決め込んでいました。
 しかし、財政再建内閣として発足した原内閣は、財政を圧迫するからとシベリアからの撤退を宣言して軍縮を進める方針を打ち出しました。当時の国民性として帝国主義の思想が根付いており、原内閣のシベリア撤退についてアメリカ寄りの弱腰政策だと非難する声が世論に上がります。
 また一方で、市民の代表として初の本格的政党内閣を率いているにも拘らず、財閥などの上流層を優遇する経済政策を行ったことが、民衆に失望の念を抱かせることとなりました。
 そして、最も彼らの期待を裏切ったこと。それが、普通選挙法案の否決でした。これは、一般大衆でも選挙で衆議院議員を決められるよう選挙法の改正を求めたもので、大正デモクラシーという民主政治の思想からなる風潮が大衆に広まり、尾崎行雄らの選挙運動に後押しされる形で帝国議会に提出されたものでした。しかし、原内閣は何と審議の最中に衆議院を解散し、そのまま法案を取り下げてしまったのです。
 これらの政策を執行したことで、原内閣は大衆からの反感を買う羽目に……
 
 そしてついにその時がやってきました。大正10(1921)年11月4日、原敬は東京駅で暗殺されてしまったのです。
 
 ちなみに、犯人は国鉄の駅員だった青年で、実は幕末に坂本龍馬と共に活躍した中岡慎太郎の孫に当たる人物だったそうです。その後、彼は無期懲役の判決により投獄されますが、昭和に入って罪を許されて釈放されたらしいです。
 
 さて平民宰相の由来について、原のこの愛称は帝国政府で国政を担う総理(宰相)でありながら爵位を賜っていないことから付けられたものでした。しかし平民と言っても、彼自身は士族。しかも、元々は盛岡藩の家老の次男。言ってしまえば、地方官僚のお坊ちゃんなのですね。ただ維新の時、藩が幕府側に付いていたため、廃藩置県後に原家は士族として市民枠に入れられてしまったというワケです。
 したがって、平民は平民でも、その生活は比較的裕福な方だったのではないでしょうか。
 
 また、初めての本格的な政党内閣と言われていますが、その政党「立憲政友会」は伊藤博文が組織した物で、原は伊藤を始め山縣有朋井上馨長州藩閥の面々と親しかったので、実は上流層寄りの人だったのではないかと思います。ただ、今の二世三世議員と違うのは、元々維新の激動を生き抜いた志の高い人達だったという点で、上流層になっても常に国家第一主義に乗っ取って政界を動かした気骨ある人物達だったことでしょう。ただ私腹ばかり肥やして国家予算の使い道に迷走したり、人気取りばかりに気を取られて足元をすくわれるようなことはまず無かったことでしょうねw
 
 さて再び、菅内閣の話に戻るとします。
 菅総理は、どこまでリーマンショック以降の市民の生活を考え、その視点に沿った政策を執り行うのか?
 あるいは、あくまで国益を重視した政策を進めるのか?
 我々に出来ることは、その動向を見極めて自分達の生活を最低限維持していくことでしょうね。
 その上で、将来の目標(こころざし)に一歩ずつ近づいていければ、何よりでしょう。
 
 長ったらしくなってしまいましたが、ぼちぼちこの辺でm(__)m
 
 
追伸:そういえば、菅さんって高杉晋作のファンなのでしょうかねぇ……
 
えっと字が間違ってましたので、慌てて修正……orz
 
さる